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学芸員コラムColumn

2020年9月24日展覧会#67 「いしかわの工芸 歴史の厚み」2 清光再考

図1

図2

 論者が、石川県立美術館で刀剣を主体的に扱うようになって20年が経ちました。この間、国から譲与された旧赤羽刀を通して、加州刀に対する認識を新たにすることができました。同時に、受け入れ時の評価に若干疑問を抱くようにもなりました。特に、本展の広報で広く紹介している《刀 銘加州金澤住藤原清光作》については、石川県立美術館の『所蔵品図録』で江戸18~19世紀としている点を再検証する必要があると思い至りました。
 最初の疑問は、元から先にかけて幅が狭まり、反りが浅く、中鋒がやや詰まる本作の姿です。これは典型的な「寛文新刀」の時代姿といえるもので、ここから制作年代は江戸17世紀に上げられます。寛文新刀は厳密に寛文年間(1661年~1673年)のみの特徴ではなく、数年の前後があるようですが、この時代の清光となると、加賀藩五代藩主・前田綱紀が1670年に現在の金沢市笠舞地区に設立した救民施設に居住したと伝わる、「笠舞清光」の作である可能性が高まります。
 たとえば裏銘に“笠舞”とあれば結論は早いのですが、本作には裏銘がなく、それが当初制作年代を下げた要因の一つと思われます。そこで銘の特徴に注目すると、『加州新刀大鑑』(日本美術刀剣保存協会石川県支部発行、1973年)142ページ所載の《刀 銘賀州金澤住藤原清光/寛文六年八月吉日》の押形(図1)に見られる、「藤原」の原2画目の切り方と、「金澤住」の澤16画目と住3画目の位置が、本作(図2)と共通することが確認されます。同書では、この刀を笠舞初代の長兵衛(清光六代)が救民施設に入る前の作と推定しており、本作も、ほぼ同じ時期に作られたものと考えられます。この検証を経て、近年は本作を江戸17世紀、長兵衛の作として展示しています。さらに、やはり江戸18~19世紀作として受け入れた《刀 銘加州藤原清光》は姿と重ねから、そして江戸17~19世紀作として受け入れた《脇指 銘清光》の2口は刃調と地鉄の観点から検証の結果、いずれも室町16世紀の作と判断しました。本展では、藤嶋友重、家次、行光、清光を藤嶋系として年代も意識して展示していますが、特に清光については、《刀 銘加州金澤住藤原清光作》以外を古刀期の作と考えることによって、違和感のない歴史的な流れが見えてきたのではないかと思います。
 藤嶋友重は、新刀期になって兼若に追従した作風も示しますが、清光長兵衛には、時代の好尚にとらわれない気概を感じます。こうした姿勢が、‘飢渴に及び救民施設に入ることを願った’と伝えられる要因となったとの見方もあります。しかし、救民施設で作刀を続けるには、当然藩主の支援が必要です。そこで想起されるのが、清光とほぼ同時期の前田綱紀治政下で活躍し、後世、“家貧なれどもその志高く、容易(たやすく)人の需(もとめ)に応ずることなし”(『近世畸人伝』1790年)と称揚された画家、久隅守景です(学芸員コラム#55参照)。さらに同書には、藩主(綱紀)は守景の人となりをよく心得ており、肝が太く、人の求めに応じるとがなく、作品も世に稀なる者に禄を与えれば絵を描かないだろうと思い、あえて貧しい境遇にしておいた。3年間で作品も加賀に多く残ったので十分な報酬を与えた、という興味深い記述があります。
 ここには、気骨と貧しさから、芸術家のあるべき姿を見いだす綱紀の思想が伝えられています。その淵源は『荘子』「田子方」にある、宋の元君の画家をめぐる逸話と思われますが、清光が三代にわたり救民施設に身を置いた真相は、この文脈から読み解くことができるのではないでしょうか。
(担当課長 村瀬博春)

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