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学芸員コラムColumn

2020年6月8日所蔵品#58 国宝《色絵雉香炉》の深層と真相

国宝《色絵雉香炉》野々村仁清

 今回は、石川県立美術館の‘本尊’ともいうべき国宝《色絵雉香炉》の制作年代や歴史的意義について、新たな観点を提示したいと思います。最初に制作年代を考察します。
 1678年に、土佐国尾戸焼の陶工・森田九右衛門が各地の窯業を視察した記録『森田九右衛門日記』には、御室焼について“かうろニえひ有、おし鳥・きしなと有”とあることが注目されます。ここから、海老、鴛鴦、雉の香炉が御室焼では一般的に制作されていたことがわかります。そこで、絶妙な陶塑と色絵の技法を駆使した国宝《色絵雉香炉》の制作年代を、御室焼の初期ではなくこの時期とする意見があります。
 しかし、『金沢 茶道と美術』(中村栄俊著 北国出版社 1978年)には、“石川県立美術館所蔵の国宝、野々村仁清作「雉香炉」は金沢市竪町の旧家山川庄太郎氏が寄贈したものであるが、もともとは利常(注.加賀藩三代藩主・前田利常)が家臣横浜勘兵衛茂吉に下賜した品であり、その子孫が安政年間(注.18541127日~1860318日)に窮迫し出入り商人であった山川家に売り渡したものと言われている(p.7)”、とあることも無視できません。
 論者は、1992年に石川県立美術館とMOA美術館が共同で開催した「野々村仁清展」に関与した折、金沢や関東、関西の由緒ある美術商のご主人(故人)にこの記述についてお尋ねしましたが、いずれも‘そのように承知している’との回答でした。国宝《色絵雉香炉》の伝来について、江戸時代の記録は現時点で確認されていませんが、利常が横浜勘兵衛茂吉に下賜したというのは実に興味深い伝承です。
 『加能郷土辞彙』には、横浜勘兵衛茂吉の父・茂元は1642年に利常に仕え、1646年に没し、勘兵衛茂吉は利常から550石を受けて子孫も藩に仕えたとあります。したがって、横浜勘兵衛茂吉が国宝《色絵雉香炉》を下賜されたのは、1646年から利常が没する1658年までの間と一応は考えられます。その上に、仁清が京都の御室、仁和寺門前に窯を開いたのは1647年頃であり、仁清のブランドイメージを高めて宮廷や大名家に紹介し、利常とも親交があった金森宗和が16561657)年に亡くなっていることから、国宝《色絵雉香炉》が制作されたのは、仁清の開窯から10年までの間である可能性が高いといえます。
 そして、応仁の乱で伽藍が全焼して以来荒廃していた仁和寺について、後水尾天皇の兄・覚深法親王が幕府に再建を願い出て許可されたのが1634年であり、1646年に伽藍再建が完遂しています。ここから、仁清ブランドは仁和寺再建を記念するものであり、国宝《色絵雉香炉》にも押されている、仁和寺の山号・大内山を表象する「仁清」幕印の使用も開窯当初からとの見方が可能となります。素地の成形から焼成、上絵付けなど色絵の一連の工程に対応する窯の整備には数年を要すると考えられることから、仁清による色絵も、仁和寺再建に合わせて試行錯誤が重ねられたはずです。
 それでは、仁清はどのようにして高度な色絵の技法を習得したのでしょうか。論者はそこに、色絵磁器の生産に並々ならぬ熱意をもって取り組んだ、利常の古九谷プロジェクトの関与を想定したいと思います。1637年、佐賀藩は有田から日本人陶工約800人を追放しました。その中には、極秘事項であった色絵磁器生産技術に通じていた者も少なからずいたことでしょう(注.論者は、有田における色絵磁器生産のルーツのひとつに、イエズス会による耐久性のある聖画制作の試みを挙げる立場から、色絵磁器は1630年代には生産されていたと考えています)。追放された陶工たちは、当然長崎周辺で生活の糧を求めることとなり、利常がすかさず長崎に御買手を派遣した本来の目的も、名物裂や茶器ではなく色絵技術の導入を前提とした、これら陶工との接触だったと考えられます。同様の動きは、当然京都で陶磁器を商う人々にもありました。仁和寺門前に色絵を志向した窯が整備されるには、有田の陶工の技術が不可欠でした。そこで、一定水準の技術力によって売れ筋製品を安定的に生産する体制が整った上で、後水尾天皇による寛永文化の思潮を継承した‘歴史的な逸品’を発注したのが利常でした。すなわち、百万石大名・利常の物心両面の支援あっての逸品制作だったのです。
 後水尾天皇は、平安時代以来の玄妙な雅(みやび)の精神を追求した寛永文化を主導することにより、江戸幕府との対立軸を鮮明にしました。そして利常は、政治力や軍事力ではなく、文化力によって江戸幕府に対する主体性を表明する戦略を、後水尾天皇から学びました。 
 その上で雅の精神を先鋭化した、景徳鎮の真似ではない「日本の色絵」という課題で利常は仁清を鼓舞して、国宝《色絵雉香炉》が誕生したと考えることができます。
 本作を観察すると、仁清は色絵磁器の技術を習得していたことがわかります。しかし磁器ではなく、あくまで陶器にこだわったのは、陶器にしかできない表現世界を追究したからです。国宝《色絵雉香炉》は型を用いて成形していますが、尾の部分には敢えて磁器の一歩手前の堅さを持った素地の特性を活かして指の跡を付けています。これは、磁器のような整いすぎた完全性を否定した美学です。この「不完全性の美学」で想起されるのは、兼好の『徒然草』82段に引用されている、“物を必ず一具に調へんとするは、つたなき者のする事なり。不具なるこそよけれ”との弘融僧都の言葉です。弘融僧都は、兼好と親交があったとされる仁和寺の僧であることから、仁和寺再建の記念碑的労作の意味をこめて、国宝《色絵雉香炉》が「不完全性の美学」を絶妙に具現化したことがここで明らかになります。
 そして、古九谷や加賀蒔絵でも確認されるように、こうした思想・技法・表現の高次の融合が利常の美術工芸振興における基本理念でした。したがって、国宝《色絵雉香炉》に用いられた色絵の技法は、古九谷に結実する色絵磁器の技法から一歩引いて、金や、緑で留めた黒の駆使など陶器ならではの温もり、味わいを目指した成果であり、ここにも素地に呼応した「不完全性の美学」が認められます(注.古九谷プロジェクトと仁清周辺との関わりを示す一例としては、九谷磁器窯跡(1号窯)出土の染付碗(6-2)の梅花の意匠を挙げることができます)。さらに、これら仁清による「不完全性」の作意は、完成の姿に隙間をあける行為であり、隙=数寄に立脚した「数寄の美学」の実に巧妙な実践として茶の湯者を魅了しています。
 それではここで、利常の発注に対して仁清が雉の香炉で応えた深意を探ります。
 仁清窯では1670年代以降に人形類も売れ筋となったようですが、仁清が香炉の体裁をとったのは、書院飾りを前提として高い識見を持った人々に鑑賞してもらいたいという意思表示でした。では、なぜ雉なのでしょうか。『万葉集』に大伴家持が詠んだ “杉の野にさ躍る雉いちしろく音にしも泣かむ隠り妻かも(19-4148)”のように、古来、雉には高声、躍動、妻恋のイメージが定着していたようです。しかし国宝《色絵雉香炉》は、敢えてそのイメージを外しています。この雉は、雄でありながら逆説的に雌伏の姿勢をとっています。そこで想起されるのが“木鶏子夜に鳴く”との禅語です。これは、虚勢を超脱した、泰然自若とした佇まいこそが真の強さの表明であると解釈されます。
 したがってこの雉の姿は、江戸幕府に屈従を強いられた後水尾天皇や利常が、その無念の思いを卓越した文化によって晴らすとの、文化政策の原点を体現したものといえます。さらに利常にとっては、幕府との文化決戦の‘最終兵器’といえる古九谷プロジェクトがこの後控えている訳ですから、仁清は余裕綽々の雉によって側面支援を表明したと考えることができます。
 最後に、国宝《色絵雉香炉》が、利常の家臣に下賜されたとの伝承を深掘りします。大乗仏教の百科全書的な書『大智度論』の第16巻に「雉、林火を救う」との説話があります。これは、大きな山火事を一羽の雉が命懸けで消そうとしている。その不惜身命の姿を見て神々が助けて鎮火した、との内容です。すなわち雉は不惜身命を表象するものであり、忠勤の褒賞として国宝《色絵雉香炉》を下賜した利常の機知に改めて感服します。

(修復工房担当課長 村瀬 博春)

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