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学芸員コラムColumn

2019年6月3日展覧会#49 脇田和と1975年の中国

 企画展「脇田和と猪熊弦一郎~モダンの展開~」関連連載その5

雲崗石仏を描く脇田和

 前回に引き続き、今回は1975年の脇田和と中国の関係についてお話ししたいと思います。
 1975(昭和50)年6月、脇田和は中国文化交流使節日本美術家代表団に加わり、中国の北京、西安、上海、無錫などを巡りました。19729月の日中国交樹立後の出来事です。
 日本美術家代表団は中川一政を名誉団長に、宮川寅雄を団長とし、そのほかに脇田和、中根寛、高山辰雄、吉田善彦、平山郁夫、加山又造など計8名が参加しています。ここでスケッチしたのが、雲崗石窟(山西省大同市)です。同年9月に4枚の大型キャンパスを使い《雲崗石仏》を描いています。
 脇田は今回の訪中時の出来事を「中国画信」と題して『読売新聞(夕刊)』に寄稿しています(1975718日)。この記事には「はだしの医者」のスケッチも掲載されています。
 「はだしの医者」は中華人民共和国における医療従事者を指していて、「郷村医」と呼ばれています。正規の医療学校を出た人ではなく、地方の医学訓練所で医療技術を学び、農業に従事しながら患者の治療にあたった医者(赤脚医生)のことです。脇田が対面した「はだしの医者」は22歳の女性でした。農作業で日に焼けた顔の彼女からは緊張した面持ちを感じたといい、スケッチからもその様子が伝わってきます。このようなスケッチ力は、ドイツ留学時代のひたすらなデッサンの訓練や写実的な記録画制作など、どんなときでも絵を描き続けた脇田だからこそ成せる技なのでしょう。(学芸員 奈良竜一)

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