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学芸員コラムColumn

2019年6月2日展覧会#48 脇田和と1938年の中国

 企画展「脇田和と猪熊弦一郎~モダンの展開~」関連連載その4

上海埠頭(左から長坂春雄、猪熊弦一郎、藤島武二、猪熊夫人、脇田和)

上海埠頭(左から長坂春雄、猪熊弦一郎、藤島武二、猪熊夫人、脇田和)

 今回は脇田和と中国の関係について、1938年と1975年の出来事について簡単にお話ししたいと思います。
 1938年、脇田は上海派遣軍に加わり、上海軍報道部委嘱による戦争記録画制作に従事するため、上海へ赴きます。当時、脇田の作風はモダンでしゃれた群像から、人形や母子を描いた、親密で素朴な温かみのある作風へ移っていく過渡期でした。しかし、このような画風は記録画には向かないため、より写実的な作風へと踏み込んでいきます。このことは、他の画家たちも同様で、自らの作風を一時中断しています。脇田は記録画制作に従事する傍ら、現地の風俗をスケッチし、のちに《国際都市上海》、《支那の子供》などを描いています。
 また、脇田は上海にて、渡欧途中の猪熊夫妻を囲み送別会をおこなっています。猪熊夫妻は同年7月、パリにアトリエを構えることになります。(学芸員 奈良竜一)

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