稲元実は、1946年石川県七尾市の蒔絵を生業とする家に生まれました。5歳で東京に転居し、69年武蔵野美術大学日本画科を卒業。71年から加藤東一に師事します。その後日展において頭角を現し、昨夏に66年の生涯を閉じるまで、日本画家として歩み続けました。
稲元の創作を語るとき、欠かせないのが一貫した主題と描写力です。生涯にわたり主題としたのは「家族」。初期は妻と自身をモデルに、やがて子ども達が加わり、変容する家族の姿を描きだします。2回目の日展特選作「歩拾弌歳」は、その構成からは、長女の誕生日を祝う記念写真を思わせますが、背景、そして夫婦の表情には不安感を漂わせています。稲元の手法はときに家族のありさまを如実に描き、そこに内在する正負の感情を暗喩的に描き出します。また、「野辺」(1980)のように家族の姿に物語を投影させる手法も用いますが、その物語は極めて個人的で解釈は両義的です。簡単に割り切れないわかりづらさが、作品に奥行きを与えることに一役買っています。
そして写実に徹し、卓抜した描写力は、人物、花鳥とジャンルを問わず揺るぎない個性を伴い、対象の奥に湛える生命感をすくい上げるようです。特に清廉な白い牡丹は、花鳥画の様式を超越しながらも徹底した写生に裏打ちされ、鑑賞する者の眼を惹きつけずにはおかない芳香を放ちます。「彼の描写力は高い水準に達している。」「真面目な男で独自の画境を確立し、ますますその探求に精進し着実に前進するであろう。」とは若き稲元の個展に宛てた師加藤東一の言葉です。
本展では、稲元実の初期から晩年までの代表作27点で、日本画の次代を担う旗手として歩んだ軌跡を辿ります。
学芸員の眼
日本画の主題、表現の方法は、戦後大きな変容を見せました。戦前期までは、いわゆる花鳥画、歴史画などに代表される日本的、伝統的な主題が主流でした。戦後、昭和30年代を中心に抽象的な表現を含め、幅広く主題がとられるようになります。しかし稲元のように、私的な世界を主題として設定することは一般的ではありませんでした。当時、モデルに家族を選ぶことはあっても、継続的に自身や家族を主題として作品化し、成功した作家は希だったのです。稲元が様々な角度から様々な手法で「自身」と「家族」の有り様を日本画で作品化したことは、近代に私小説が登場したことや、現代写真界に「私写真」という概念が登場したことに通ずるものを感じます。