長谷川等伯と久隅守景、この両者に直接の接点はあったのでしょうか。守景の生没年が未だ判明していないのは残念なところですが、江戸時代の元禄年間頃にかなりの高齢で世を去ったと考えられる守景は、一六一〇年に没した等伯の最晩年には生まれていた可能性が高いということができます。そして、守景は狩野探幽門下の画人として等伯の作品を実見していたことは確かでしょう。しかし何よりも等伯と守景を結ぶのは、能登と加賀という石川の風土です。 等伯は七尾に生まれ、大陸や都からの程よい距離感から醸成された文化風土の中で自己の画業を磨き、やがて京都に上って狩野派を脅かす勢いで画壇の頂点に登り詰めました。一方守景は、探幽門下の傑出した画家としてその力量を高く評価されながらも、身内の不始末からか狩野派とは距離を置き、やがて文化政策で幕府に挑んだ加賀の地で画業を開花させました。このように、石川の風土から等伯と守景が結び付き、それは室町時代末から桃山時代を経て江戸時代前期に至る絵画の展開を、狩野派との確執から眺めてみるという興味深い視点ともなります。
今回は、等伯が信春と名のり能登で制作した「日蓮聖人像」(実相寺蔵・七尾市指定文化財)と「十六羅漢図」(霊泉寺蔵・石川県指定文化財)に、守景の「四季耕作図」を重要文化財、石川県指定文化財(以上当館蔵)、重要美術品(個人蔵)と三作を一挙に並べて展示し、伝統と創造という課題に果敢に挑戦した両画家の軌跡をたどります