佐々木三六 年譜
万延元 12月22日越前福井神明前神楽町に佐々木権六の次男として生まれる。
文久2 母多寿子二七歳で死去。
明治3 11 9月、父権六工部省出仕となり、 一家東京に転居する。
明治7 14 4月、一家麹町区隼町6番地に居住。
明治8 15 イタリアに留学。トリノ王立インターナショナル学校で画学および語学を学ぶ。
トリノ王立美術学校で図画と油絵を学ぶ。
明治10 17 校内のコンクールで一等賞を受ける。
明治11 18 校内のコンクールで褒賞を受ける。
明治14 21 9月美術学校卒業。同年帰国する。
明治17 24 松平春嶽の油彩肖像画を写真をもとに描く。
明治18 25 東京大学理学部画工準判任御用掛となる。
明治21 28 第一高等中学校教諭となり図画を教える。
明治22 29 5月、明治美術会発足に加わる。
10月、第一回明治美術会展に油絵『負傷者護送之図模写』を出品
明治27 34 10月、第一高等学校非職となる。
明治30 37 10月、図画教員免許状を得る。免許状学科は鉛筆画、用器画。石川県尋常中学校教諭となる。 
明治32 39 石川県師範学校図画教諭兼務。
明治36 43 『富士山の図』(藩老本多蔵品館所蔵)を描く。
明治37 44 12月、権六隠居により分家。材木町五丁目三六に居住。
明治44 51 8月、金沢第一中学校(尋常中学校改称)を依願退職。
大正13 64 1月、金城画壇展覧会の創設に関わる。
6月、第1回金城画壇展『霜月』『秋の午後』『飛沫』 『漁村にて』『春かすみ』『新緑』『かぶと』『老人』『河北の春』『秋の日』出品。 
大正14 65 11月、第2回金城画壇展に会員として『初秋の水辺』 『椿』『河口の夏』『静物』『稲みのる頃』出品。
脳卒中で倒れ、右半身麻痺。以後は左手で制作する。
大正15 66 6月、第3回金城画壇展監査事務。『秋光』『松』『静物』 『チューリップ』出品。
昭和2 67 12月、第3回金沢洋画協会作品展覧会に『果実』出品。
昭和3 67 12月19日死去。67歳
昭和5 9月、第6回金城画壇展に際し遺作展が開催され46点が展示される。
佐々木三六氏
佐々木三六氏
 
 
 
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