作 家 紹 介 |
|
無−I 目黒区美術館 | 木下 晋(きのしたすすむ)のペンシルワーク 木下晋は、1947(昭和22) 年富山市に生まれた。独学で油絵やクレヨン画を描き、16 歳の時、自由美術協会展に初入選して注目を浴びる。やがて、詩人の瀧口修造や美術評論家の洲之内徹に認められるが、しばらくは苦闘の時代が続く。“良いデッサンはモノトーンでも色を感じさせる”という考えに至り、1980年頃から鉛筆のみによる表現に挑んで独自の表現方法を確立、“ペンシルワーク”と名付ける。鉛筆には9Bから9Hまで20種があり、それぞれの階調が持つ美しさを色として感じ、それらを使い分けることで、絵具と同じように様々なトーンの表現ができるのである。 老人、ホームレス、旅芸人などをモデルに、透徹した目でそれぞれの人生を抉り出した巨大な肖像画には、皮膚の皺、髪の毛の一本一本までが細密に執拗に描き込まれ、見るものに迫ってくる。モデルを描く課程で木下は、とことん話しかけ、様々な質問を浴びせることでその人格を深く理解する。そして、語られる言葉に魂が揺さぶられて初めてその人を描くことが出来るようになるのだという。 生々しいほどにリアルな画面には、モデルとなった人々の生き様が刻み込まれているが、ことに、最後の瞽女(盲目の女性旅芸人)として人間国宝に認定された小林ハルの連作は圧倒的な存在感を放っている。 |
蘇生の刻 群舞94-10C 黒部市美術館 |
小林敬生のダイナミックな木口木版 小林敬生は、1944(昭和19)年島根県松江市に生まれた。広島県で幼少年期を過ごし、10歳の時に滋賀県大津市に移り住む。高校卒業後京都と東京で美術を学び、板目木版や油彩画を描いていたが、'70年代中頃に日和崎尊夫の木口木版画《KALPA》シリーズと出会い、大きな衝撃を受けて木口木版の制作を始めた。 木口木版画は黄楊や椿のような堅い木を水平に輪切りにした面(木口)に、銅版用のビュランやノミで彫り版を作る。そのため幹の太さに限定されて小画面となることが多いのだが、'80年代後半より、版木を10枚以上も繋ぎ合わせ、非常にスケールの大きいダイナミックな作品を制作している。作品には雁皮紙を使い、薄いけれど強いという特性を生かし、同一の版木で刷った紙を裏返しにして貼り合わせ、一つの作品に仕上げる。まるで鏡に映したような効果が生まれることからこの技法を「鏡貼り」といい、小林独自の表現技法である。 作品には、飛翔する鳥や泳ぎ回る魚、地中から這い出てきたような昆虫などが、繁茂する植物と絡み合って、幻想的な光景が登場する。少年の頃、琵琶湖の湖岸や川での、自然に囲まれて過ごした記憶が根底にあるのである。 「自然の摂理を無視、あるいは抗い克そうとするかにみえる近年のテクノロジーの進歩に私は人間の傲慢さを、思い上がりを感じるのです」とは小林の言葉であるが、文明社会への警鐘、そして、人間が本来あるべき自然との共生というテーマを常に追い求めている。 |
像 町田市立国際版画美術館 |
闇を刻む詩人−日和崎尊夫 日和崎尊夫は、1941(昭和16)年高知市に生まれた。高校卒業後、武蔵野美術学校で西洋画を学ぶが、油絵には馴染まぬものを感じ、木版画の講習を受けた。卒業後、'64年に高知に戻った時に木口木版画の技法を独学で習得し、'66年に日本版協会展で新人賞を受けて注目を浴びる。以後、木口を刻むことに歓びを感じながら精力的に創作し、フィレンツェ国際版画ビエンナーレ展金賞を初め、数々の賞を受賞。'77年に木口木版画家の会[鑿の会]結成に参加。世界的に衰退していた木口木版画の技法を現代に蘇らせたパイオニアとして知られる。 '68年頃、強度のノイローゼにかかった時、『老子』と『法華経』を耽読し、【kalpa(劫)カルパ】という概念に開眼する。kalpa(劫)とは「43億2000万年という、想像も計算も超越した極めて長い時間」という概念を示し、無限感、宇宙的な奥行き、暗闇の中の光芒を表現する日和崎にぴたりと符合するものであった。 下絵もなしに木口を刻み続けて創造される《KALPA》の世界は、万華鏡のように、抽象化されたリズミカルな形が反復し増幅し、埋め尽くされている。故郷高知で育成した椿の木、その椿を切るとき日和崎は酒を祭ったという。年輪が刻み込まれた木口の断面を慈しみ、愛おしつつ即興で漆黒の宇宙を刻んでいったのである。 画家であり詩人であった日和崎は、酒を飲み、詩を口ずさみながら、制作に没頭した。そして数々の酒にまつわる逸話を残し、'92(平成4)年、50歳で逝くのであった。 |
|