大乗寺は寺伝によると、冨樫家尚が弘長二年(1263)加賀押野庄(石川郡野々市町)に、真言僧である澄海(ちょうかい)阿闍梨を請して建てられましたが、正応四年(1291)に、越前の永平寺第三世であった徹通義介を開山にして曹洞寺院に改まります。その後、大乗寺は二世に瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が、三世には明峰素哲(めいほうそてつ)といった高僧が住持となり、大乗寺は大いに宗風を宣揚するとともに、祗陀大智(ぎだだいち)をはじめとする多くの名僧をも輩出し、明峰派の母胎として興隆することとなります。
南北朝〜室町時代にかけては、足利幕府の祈願寺となり、冨樫家を外護にして栄えますが、加賀一向一揆では外護を失い、さらに信長軍の侵攻の兵火によって一山は灰燼に帰すこととなります。江戸時代に入り野々市から金沢に移転した大乗寺は、寺域を転々としながらも有力加賀藩士などを新たに壇越として復興を図りました。 さらに江戸時代中期には、月舟宗胡(げっしゅうそうこ)と卍山道白(まんざんどうはく)が住持となって宗統
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復古運動が強力に推し進められ、規矩大乗と称せられるように古規を復興し、また叢林の復活と整備が図られ中興をなしました。また現在地(金沢市長坂町)に寺地を得て移転し、伽藍の整備を進め、また全国から多くの僧が雲集するなど隆盛をみせ、宗門の拠点としてのほか、加賀の古刹としても新たな発展の素地が築かれることとなります。
しかし江戸時代には永平寺と総持寺両本山の間にあって宗門内の争い(永平寺との本末事件や古規紛争)に揺れることがあったものの、歴代住持や末寺などの働き掛けと、藩や壇越の加護に幕府の理解を得るなどにより難局を切り抜け、創建以来の伝統を守り今日に至っています。まさに大乗寺の盛衰・消長が曹洞宗の変遷の歴史に大きく関わるものであったといえます。
今回の展示では、大乗寺の永い歴史において、住持や大乗寺伝来の文化財などの名品のほか、寺の歴史を物語る資料を含めての展示となっています。
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