前田育徳会展示室

特別陳列 前田家 名物裂の精華
7月26日(水)〜8月28日(月)

 名物裂とは、そのほとんどが中国の宋・元・明・清の時代に製織されたもので、鎌倉・室町時代から江戸時代中期にかけて日本に舶載され、わが国の茶道をはじめ近世文化の成立に重要な貢献をした裂地類の固有名称です。内容は金襴、緞子、間道が主で、錦、風通、繻珍、ビロード、印金、モール、更紗などがあります。
 このような舶載裂は書画の表装裂や、名物茶道具の仕覆として、当時の優れた鑑識眼をもつ茶人たちによって選択されたものです。茶人たちにとって名物裂は、それだけを単独に賞玩するものではなく、道具に付随し、道具を保護し、道具に似合っていなければなりません。さらにはその道具と一体となり、鑑賞されるようになりました。この課程において「名物裂」という詞が生まれたのです。
  前田家の名物裂のコレクションは、3代藩主前田利常の収集に始まります。寛永14年(1637)、当時唯一の海

外への窓口であり、舶来品の宝庫であった長崎へ、家臣の矢野所左衛門と瀬尾権兵衛、京都の目利き吉文字屋庄兵衛を遣わせ、価かまわず買い求めたといわれています。利常は茶の湯にことのほか関心を寄せ、小堀遠州との交流も深く、茶器の購入を相談したり、手前や道具について遠州に教示を受けていることが今日に伝わる書状から知ることができます。遠州はわが国で最初の名物裂帖「文龍(もんりょう)」を作製しています。遠州自身が名物茶道具に用いた「好み裂」の裁ち残りを保存したものがほとんどですから、大変貴重な資料です。名物裂はこれ以後独自の文化的価値をもつようになるわけですが、それは遠州の名物道具選定と同じように遠州の選定が基準となっています。
 今回は、金襴、緞子、錦、間道、モールなど37点を展示しますが、利常と遠州の二人の美意識によって生まれた見事な美の世界を味わっていただきます。      
 主な展示作品
         小石畳地宝珠形鳳凰雲文様金襴(興福寺金襴)
         作土形草花文様金襴(大鶏頭金襴)
         一重蔓大牡丹唐草文様金紗
         花唐草段文様銀モール
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第2展示室

特集 古九谷・再興九谷名品展
7月26日(水)〜8月28日(月)

 豪放雄大な古九谷から絢爛華麗な九谷庄三までを公開している本展は、九谷焼の流れの学習と、九谷焼の美が鑑賞でき、大変好評を博しています。
 前回の内、およそ三分の一ほどを展示替えします。出展点数57点の内、古九谷が13点で最も多くあり、次に吉田屋窯が12点、若杉窯が9点で、ほか各窯から1ないし4点ずつの展示です。
 今回は、吉田屋窯について記してみましょう
 吉田屋窯は、大聖寺の豪商4代豊田伝右衛門が、古九谷再興を意図し、当初、江沼郡九谷村の地で興したやきものです。文政6年(1823)9月頃から準備を始め、翌7年(1824)には開窯しましたが、地理的にも不便なため、同8年に窯を閉鎖し、同9年に山代村の越中谷に移っています。そして相当盛大に操業しましたが、同10年2月に5代、6月に4代が没し、その後を継いだ6代のとき借銀が重なり、天保2年(1831)に焼止めとなりました。

 作風は、古九谷青手を狙い、赤の絵の具を用いない三彩や四彩による塗埋手で、速度感のある軽快な筆致を特色としています。素地は、九谷村でのものはやや分厚く鼠色を呈しています。山代村移築後のものもやはり鼠色、あるいは黄白色で半磁胎です。また器種も食器から台所用品・酒器・文房具・茶道具・調度品など、あらゆるものを生産しています。
 吉田屋窯の在銘品のうち、文政11年(1828)銘「色絵麒麟図輪花鉢」が今回登場します。また展示品の中で「色絵松竹梅文輪花鉢」は、「天保二卯年/九谷焼丼鉢(以下略)」の箱書銘があります。天保2年(1831)といえば、吉田屋窯が焼止めとなった年です。作品は、箱書の年より年代的に少し遡るものと思われますが、いずれにしても吉田屋窯の終盤を飾る時期のものとして注目されるものです。

 主な展示作品
    古九谷

       色絵鶴かるた文平鉢
       青手樹木図平鉢
    再興九谷
       色絵麒麟図輪花鉢 吉田屋窯
       赤絵花鳥文鉢 宮本屋窯
       色絵花鳥図銅鑼鉢 永楽和全
       色絵草花文呉須赤絵写鉢 春日山窯
       色絵草虫文芙蓉手平鉢 若杉窯
 
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