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学芸員コラムColumn

2020年9月4日展覧会#65 石川県指定文化財《槇檜図》俵屋宗達筆 再考

《槇檜図》展示状態

《槇檜図》拡大図

  琳派は、17世紀初頭に刀剣の鑑定などを家職とする本阿弥光悦が中心となって京都で推進した造形運動を端緒とします。そこで第2展示室の特集「琳派」では、この家職の神髄である透徹した観察眼が、たとえば《風神雷神図》など俵屋宗達や尾形光琳の代表作に見られる冷徹な構図法と照応するのではないかとの観点から、本阿弥光徳の《刀絵図》(重要美術品)を展示します。光徳が引いた迷いのない線は、対象を臨模する次元を超越した、まさに本質直観の気迫が感じられます。
 そしてこの気迫は、同時に展示する宗達の《槇檜図》からも伝わってきます。本作は総金箔地ではなく、2ミリ大を基調に、4ミリ大、6ミリ大と大きさの異なる金の切箔を克明に蒔き、そこに墨、藍、藍墨の濃淡を駆使して槇、檜、樅が描かれています。拡大図で示したように、宗達は樹木の遠近感と繁茂する若木が発する気を表出するために、単純に切箔を蒔いた上に描くのではなく、描いた後に切箔を蒔き、また時に箔の重ね具合を調整して厚みの異なる切箔を交え、さらに蒔く前に金泥を引き、1ミリ以下の微小な切箔も加えるなど、極めて繊細な手法を駆使して、光の反射の微妙な変化を勘案しています。画面上部には金銀の野毛と砂子を蒔き、そこに霞の風情で銀泥を引いています。加えて、墨と藍の諧調が、対象を深い緑色に見せる効果を発揮している点も注目されます。こうして、初夏の早朝に山野を満たす瑞々しい大気が絶妙に表出されています。
 画面全体を眺めると、樹木の描写には写実的な意識は余り感じられず、時に幹と枝の関係が曖昧にすらなります。しかし葉の一枚一枚から構成された樹木の形象は緊密であり、宗達は怜悧な計算による人工に徹した手法によって、画面に‘自から成る’自然の根源的な力を充溢させました。それでは、このような表現手法の深意は何なのでしょうか。光悦と同じように法華宗を信仰し、千利休の養嗣子・少庵を招くほどの茶の湯の嗜みがあり、晩年は禅に傾倒した宗達の思想背景を考えると、禅の思想原理を説いた『摩訶止観』第3巻第5章末の“大地は冥に樹木を益し、樹木の萌芽ことごとく成就することを得るがごとし”との記述が想起されます。
 すなわち、人間は本来悟りの知恵を具有しており、発心さえすればその知恵は、あたかも木々が萌芽し、繁茂するように顕現するという『法華経』「薬草喩品第五」に立脚した天台・法華の根本思想が、本作の深意の淵源と解釈されます。『摩訶止観』は法華三大部のひとつとして、法華宗の重要な論書であると同時に、歌論をはじめ世阿弥の能楽論など、中世から近世の芸道思想に深い影響を与えています。したがって宗達や、茶の湯や能楽をよくした法橋叙任後の宗達の顧客層がその内容を知っていたことは疑いありません。
 作画にあたり宗達は、土坡(どは)をあえて描かずに人間の本性としての大地を画面に展開し、雨を降らす雲ではなく、生命力旺盛な若木が発散する気による霞を描くことで、‘自から成る’自然の力が顕現する前提となる、発心や自発的な努力の重要性を強調しているようです。したがって伝存する宗達作品の中でも特異に怜悧な作意や計算を重ねた本作は、宗達による自然の本質直観を造形化したものであり、信心と精進の自己証示だったと考えることができます。

(修復工房担当課長 村瀬博春)

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