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学芸員コラムColumn

2020年2月7日展覧会#55 久隅守景《四季耕作図》(県指定文化財)に見られる竜骨車描写の謎

 「田園画家」との異名をとるように、久隅守景は一人の画家としては類例がないほど多くの「四季耕作図」を描いています。「四季耕作図」の画題自体は中国で生まれ、為政者は民の労苦を知り、民を慈しむようにとの儒教的な性格をもって、室町時代から江戸時代に狩野派など主に漢画系の画家によって一定の形式を踏襲して描かれました。
 中国由来の画題であることから、通常人物描写は中国風俗によりますが、守景は一連の「四季耕作図」の制作を通して、中国風俗から日本風俗へと表現を転換させている点が注目されます。開催中の「いしかわのおもてなし」で展示している作品は、その中国風俗による最終段階に位置付けられるもので、風景描写は既に日本風へと移行しつつあります。
 「いしかわのおもてなし」展では、この守景作品の隣に、大乗寺が所蔵する《四季耕作図》(県文)も展示されています。こちらはかつて狩野永徳の長男・光信の作と伝えられましたが、少なくとも守景より早い時期、17世紀初め頃の狩野派の画家が描いたものと考えられます。
 そこで、灌漑の場面に絞ってこの両者を比較すると、興味深いい事実が判明します。狩野派の画家は、しばしば夏の灌漑の場面に竜骨車を描きますが、水は当然、池あるいは川から引かれるため、竜骨車はそこに浸かっていなければなりません。大乗寺蔵の《四季耕作図》はそのように描かれていますが、守景は、竜骨車の向きを逆にしています。これでは田の水を池に戻すことになりますが、守景の描写では、幸い車を回すペダルが描かれておらず、その心配はなさそうです。
 それでは、守景は間違えたのでしょうか。幕府の御用絵師・狩野探幽門下の傑出した画家として評価も高かった守景ほどの画家であれば、当然粉本類は入念に学習しているはずであり、こうした初歩的な間違いをするとは考えられません。むしろ守景は、ある確信をもってこのような表現を行ったのではないでしょうか。

県文《四季耕作図》(部分)、久隅守景筆、当館蔵

 

 そこで思い当たるのが、加賀藩三代藩主・前田利常が実施し、五代藩主・綱紀が拡充させた「改作法」です。改作法は、武士と農民の困窮を救済する目的で、武士が農民から直接年貢を徴収するのではなく、一村の税率を固定して、十村を中核とする郷村支配の確立をもって租税収入の安定化を図ったうえ、新田開発により年貢の大幅増徴を図った農政改革です。すなわち守景が描いたのは、改作法により苦役を強いられることがなくなった農民であり、四季折々に自然と一体となって生活を楽しむという、人間のあるべき姿だったと考えられます。それゆえに、この作品が描かれたと判断される綱紀の時代には、藩内の灌漑も行き届き、伝統的な竜骨車は、もはや必要なかったのです。

県文《四季耕作図》(部分)、狩野派、大乗寺蔵

 ちなみに、守景が金沢で描いた「四季耕作図」の最終段階とされる重文の作例(石川県立美術館蔵)には、年貢の額を免状で通知する代官と、それを受け取る十村一行が描かれています。さらにその左上方には、積み上げられた藁の前で無邪気に犬と遊ぶ子供と、その傍らに解体された竜骨車が描かれています。したがって、この場面には、加賀藩が先駆的に取り組んだ改作法が理想的に機能していることを強くアピールする意図があったと考えられます。
 このように、守景による竜骨車の描写には、洗練された文化政策と先進的な農政で幕府に挑んだ加賀藩の意気という深い意味があったということで、改めて「いしかわのおもてなし」の会場で大乗寺の作品と比較しながら鑑賞していただきたいと思います。(担当課長 村瀬博春)

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