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学芸員コラムColumn

2016年9月2日展覧会#8 特別陳列「高山右近」に寄せて 1

利家・利休ツーショット

展示風景 左:長次郎《黒楽茶碗 銘北野》 右:県文《前田利家画像》

 高山右近の存在は広く知られているが、右近が金沢で26年間も過ごした事実は意外に知られていない。2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」でも、豊臣秀吉が1587年にバテレン追放令を出した際に右近は棄教を拒否して領地没収・追放の身となり、そのままマニラで没したかのような印象を与える取り上げ方だった。史実では、右近は追放され小豆島などに潜伏した後、翌1588年に前田利家により金沢に迎えられている。金沢時代の右近の影が薄い理由の一つに、右近は秀吉の意向を受けた利家の監視下に置かれたとするイエズス会の資料の影響が考えられる。しかし、右近が金沢に向かった直後に、千利休がキリシタン大名・蒲生氏郷に宛てた書状(大阪城天守閣蔵)には注目すべき記述がある。そこには、右近の金沢下向を「仕合わせ目出度い」と喜ぶ利休の心情が記されおり、同じ文面には秀吉が進める方広寺大仏殿の工事を皮肉るような狂歌も添えられている。ここから、右近が金沢に来たのは秀吉の意向ではなかったことを読み取ることができる。かつては敵対する関係でもあった右近を利家が迎えた背景には、利休の茶の湯を介した強固な信頼関係があった。そこで利家とともに嫡男・利長も利休に茶の湯を学んでいることを思い起こすと、右近が金沢に迎えられたことを利休が喜んだ理由も理解できる。
 このように、茶の湯の観点から金沢と高山右近の隠された真実を読み解くことができるのではないだろうか。
(学芸第一課担当課長 村瀬博春)

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